2001年2月25日
礼拝説教題 「人の醜さの中に」
創世記37:1〜11、エフェソ1:3〜10
天地を造り支配されている神の計画があります。私たちを救いの完成に招き入れ、キリストのもとにひとつにする計画です。
しかし、その計画は分かりにくい時があります。神の知恵は私たちよりもはるかに高く深いからです。
わたしたちの見えることや、想像可能な時を越えて、実現する計画だからです。
創世記37章から始まるヨセフ物語は、神の計画の確かさを語ります。
その計画を巡ってうごめく人間が登場しますが,それでも神の計画は実現していくのです。
神は、夢でヨセフにその計画を示されました(6〜7節)。それは、ヨセフによって
家族みんなが救われることを暗示したものでした。しかし、ヨセフ自身も兄たちもそれを理解することはできませんでした。
ヨセフは、夢を自分一人の幸せの中に閉じ込めて解釈しました。
自分が一番になることだと思い込みます。しかし、神の計画は一人の人間だけを喜ばせるものではありません。
救いが周りに広がっていくことをいつも含んでいます。周りの人をも救いに巻き込む壮大なものです。
兄たちは、神の計画を受け入れられません。自分の願い通りではないと思ったからです。
そして、それを拒もうと必死になります。神の計画を拒むときに、人の醜さは深まります。
ヨセフを殺そうとします。奴隷として売ります。父を騙します。
神の計画を誤解し、拒み、混迷を深めていく姿は他人事ではありません。人はそのおろかさを繰り返します。
神の計画を信頼できない時には、目の前のことしか見えておらず、先は見えません。
そこに平安が生まれるはずがありません。不安に囚われ、ますます醜さを深めてしまいます。
しかし、人の誤解や醜さによっては、神の計画は中断されませんでした。
神は人の愚かさを知っておられるからです。それを修正しながらことを進めることがおできになる。
そこに神の知恵の豊かさと深さがあります。それを知ったときに醜さは一変します。